☆★☆ぽんつかのF1名(迷)車列伝☆★☆

☆ぽんつかのF1(をはじめとする)ミニカーコレクションの紹介☆

ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・8

◆2004 ウィリアムズ・BMW FW26

今やすっかり没落してしまった名門ウィリアムズ。
ここ数年常にチーム消滅、売却の話がささやかれ、
ついにドリルトン・キャピタルというアメリカの企業に買収されることが決定した。
※2020.8.31(ブログ更新時点)
今回紹介するのはまだ強豪の面影をとどめていた頃の、
まだ辛うじて優勝を狙える戦闘力を保持していた頃の
ウィリアムズの名車と言うよりは"迷"車の部類か。

時はM.シューマッハの「絶対王者」時代後期の2004年、
この頃になるとF1マシンはレギュレーションでがんじがらめにされ、
どのチームも似たりよったりのフォルムのマシンを作るようになる。
1994年に悲劇的な事故でA.セナというカリスマ王者を失ったF1は、
以降10年にわたり安全対策と称してマシンのハイスピード化を阻止する
方向へレギュレーション改正の舵を切る。
マシンパワーの抑制、速度アップに繋がる空力を始めとするデバイスの禁止、
マシンとタイヤのナロートレッド化、スリックタイヤの撤廃など、
戦闘力アップに繋がるマシン開発に制限をかけたことにより、
マシンの「無個性化」が進行。
昔は、シーズン開幕前の新車発表となるととんでもなくワクワクしたものだが、
この頃になるとF1マシンもマンネリの一途を辿る。
そんな中でのこのフロントセクションである。
このつまらない時代をあざ笑うかのような攻めたデザイン。
しかもそれが、F1界でも1、2を争う保守コンサバ路線で知られる
ウィリアムズのTD(テクニカル・ディレクター)パトリック・ヘッドが
設計したというのだ(ボディワークについてはギャビン・フィッシャーがメイン)。
ブラボー!パトリック・ヘッド!!
ブラボー!ウィリアムズ!!
これだ!私はこういう「攻めた」マシンを待っていた!!!
と感心、いや感嘆したものだ。
これはそのフォルムから『ウォラス(セイウチ)ノーズ』と呼ばれた。
まぁ結局はこのアヴァンギャルドなフロントセクションがアダになり、
姿勢変化に弱いという致命的なマシン特性を抱えることになったのだが…。
この「セイウチ」の残したリザルトも不安定なもので、
モントーヤが2度表彰台に上がったものの、相棒のR.シューマッハ共々
ポディウムの真ん中には立てず。そのラルフはと言えば第9戦アメリカで大クラッシュ、
その後6戦を怪我で欠場してしまう。
結果第13戦ハンガリーGPには、オーソドックスなフロントノーズへ変更された
FW26Cを投入。このFW26Cは最終戦ブラジルGPでJ.P.モントーヤが勝利をあげるが、
FW26は結果未勝利に終わる。ちなみに今回はがFW26Cの写真も掲載した。
ミニカーを持っていないので実写で。
「オーソドックス」と「攻めたデザイン」の対比を、じっくりとご堪能ください。

◇ウィリアムズ FW26
 デザイナー:パトリック・ヘッド
       ギャビン・フィッシャー
       アントニオ・テルツィ
 エンジン:BMW P84 3.0L V10(ドイツ)
 タイヤ:ミシュラン(フランス)
 燃料:ペトロブラス(ブラジル)
 ミッション:ウィリアムズ製6速セミオートマ
 ドライバー 3:ファンパブロ・モントーヤ(コロンビア)
       4:ラルフ・シューマッハ(ドイツ) 

 

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・7

◆1996 ウィリアムズ・ルノーFW18

1996年のチャンピオンマシン。
1992年にN.マンセルが、93年にはA.プロストがドライバー王座に輝き、
コンストラクター王座は92、93、94年と三連覇したウィリアムズ。
90年代前半はウィリアムズ時代と言って良い。
しかし1994年、ウィリアムズはレース中の悲劇的な死亡事故により、
この年からステアリングを握ったカリスマ王者A.セナを序盤で失う。
セナに代わって突如ウィリアムズのエースとして走らねばならなくなったのが、
それまでNo.2ドライバーだったデイモン・ヒルだ。

91、92年とウィリアムズのテストドライバーだったヒルは、
93年にプロストのチームメイトとしてウィリアムズの正ドライバーに昇格。
62、68年のF1王者グラハム・ヒルの息子で、23歳までは二輪で走っており
その後四輪に転向した遅咲きのドライバー。
92年はウィリアムズのテストドライバーを務める傍ら、
資金難で困窮していたかつての名門ブラバムからF1デビューしていた。
その後93年には3勝、94年は6勝、95年には4勝をあげ、
遅咲きながら選手権の主役となっていく。
しかし最も王座に近付いた94年は、最終戦でライバルであるM.シューマッハ
撃墜(ポイントリーダーのシューマッハヒルに幅寄せし接触、両者リタイヤ)され
王座を逃し、95年はライバルのベネトンも同じルノーエンジンを
獲得したためチーム間の戦力は拮抗。
おまけにチーム初のハイノーズマシンFW17の信頼性が上がらず、
チームの戦略ミスもありこれも王座に届かず。
シューマッハベネトンの盤石なレースぶりに対し、
脆さを感じさせるデイモンと、ピット作業や戦略ミスが目立つウィリアムズ。
控えめでエゴを主張しない生来の人柄も相まってこの頃のデイモンは、
王座を争うキャラクターとしてはいささか不甲斐ない印象を濃くしていた。

しかし迎えた96年のウィリアムズとヒルは本来の強さを発揮する。
熟成の進んだFW18とルノーV10は、全16戦12勝と大暴れ。
チームメイトとなった、前年のCART王者にして
F1ドライバー、ジル・ビルヌーブの息子、ジャック・ビルヌーブ
タイトルを争い、シーズン8勝をあげたヒルが悲願のタイトルを獲得する。
世界王者の息子であることから当初は「七光り」と揶揄され、
ヒルの速さはマシンのおかげ」と叩かれながらも、直向きに走り掴んだ王座。
94年以降王座を争ったシューマッハからは「アマチュア」呼ばわりされ、
ヒルなんてライバルとしてリスペクトしない」とまで言い放たれたが、
「公衆の面前でここまで侮辱され、なぜ反駁しないのか?」との問いには
「自分のスタイルではないからだ」と答える「ジェントルマン」だった。
そして96年、デイモンはついに自身の力でシューマッハを破り、
キャリア最初で最後の世界王者となるのだった。
王座を獲得した日本GPで、レース後にポディウム前でジョージー夫人と抱擁を
交わしたシーンはとても印象的だった。

マシンはパトリック・ヘッドと「空力の鬼才」A.ニューウェイの作。
94年からチームをスポンサードした、英国のタバコメーカー「Rothmans」
のカラーリングが美しい一台。

◇ウィリアムズ FW18
 デザイナー:パトリック・ヘッド
       エイドリアン・ニューウェイ
 エンジン:ルノーRS8/RS8B 3.0L V10(フランス) 
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ) 
 燃料:エルフ(イフランス 
 ミッション:ウィリアムズ製 6速セミオートマ 
 ドライバー 5:デイモン・ヒル(イギリス)
       6:ジャック・ヴィルヌーヴ(カナダ)

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・6

 

◆1990 フェラーリ 641/2

A.プロストフェラーリはなかなか手に入りにくい。
フェラーリ以外のプロストのミニカーは、マクラーレンでもルノーでも
ウィリアムズでも、数多くリリースはある。
しかし、90、91年のプロストフェラーリというのはほとんどない。
あっても非常に高額なメーカーのモデルばかりだ。
これは数年前、偶然ホ○ビーオフで見つけた、iXo(イクソ)製のリユース品だ。
リアウイングのデカールに剥離があるが、この機を逃せば
お目にかかれないと思い購入した。
ちなみに価格は¥3000である。

641/2は「名車」だ。誰がなんと言おうと。これほど美しい、
流麗なフォルムで、それでいて速かったマシンというのは、GP史上そうは無い。
これだけかっこよくて美しくて、それでいて当時最速と言われた
マクラーレンのセナと、王座を争った名車だ。
当時のF1マシンは、今よりもずっとロー&ワイドフォルム。
重心も非常に低く、ワイドトレッドのマシンは、それだけで文字通り
地を這うよな走行姿勢だった。とくにこの641/2の造形と装飾は秀逸で、
ウイング以外はイタリアンレッド一色のボディは。スポンサーロゴも多くなく、
スッキリ潔く「情熱の国イタリア」ろ体現していた。
グラマラスで流麗すぎるフォルムは、外見と実力を両立した、
F1マシンにおいて極めて稀有な一例といえた。
しかし、この641/2は本当に速かったのだろうか?

信頼性に不安のあるセミオートマを抱え、搭載されたV12エンジン「Tipo036」は、
高回転型の割にホンダV10よりもパワーで30馬力ほど劣っており
(のち「Tipo037」でやや改善される)、高回転域ではホンダに負け、
かといって低速域もトルクフルとは言えないV12エンジンだった。
事実モナコハンガリーといった低速コースでは大苦戦した。
それにナンバー2のマンセルは、トラブルの続発もあり16戦でわずか1勝のみ、
ポイントもプロストの半分以下で終わった。それを考えると、
641/2が必ずしも「速かった」とは言えないのではないか?
しかし対してプロストは、マシンのポテンシャルをしっかりと引き出した。
もしかすると性能以上のものを引き出していたかもしれない。
プロストはそのくらい速かった。プロストあってこその641/2だったと言える。
だから、このマシンはプロストの存在があってこそ初めて、
完璧な「名車」たりえるのだと思う。

前年初めて実戦投入されたセミオートマは、相変わらず信頼性の不安を抱え、
事実プロストは開幕戦を、ギアボックストラブルで落としている。
しかしプロストは641の初期型で第2戦ブラジルGPを勝利し
第3戦から投入された641/2では第6戦メキシコから第8戦イギリスまで3連勝。
その後第14戦スペインでも優勝し、シーズン5勝をあげた。
かたやチームメイトのマンセルは、第13戦ポルトガルの1勝のみで、
トラブルでのリタイヤも多かった。
ガソリン残量がハンドリングに大きく影響するデリケートな面もあり、
決して操り易いマシンではなかったはずだ。
それでもプロストは、最適なバランスとセットアップを見つけ、
信頼性に難のあるセミオートマも壊さずに手懐けた。
一度の操作で複数段のギアチェンジが可能な、いわゆる「段飛ばしシフト」
も使いこなした。79年のJ.シェクター以降ドライバー王座から遠ざかっていた
当時のフェラーリが、後に2000年にM.シューマッハが王座を獲得するまでの21年間で、
最も王座獲得に近づいたのがこの90年であり、
最も王座獲得に近づいたドライバーがA.プロストだったのだ。

88年、マクラーレンのドライバーだったプロスト
自身のパートナーとしてセナの獲得をチームに進言。
チームとして盤石の態勢を築くことを目論むも、次第にチームはセナよりになり、
最終的にチームの実権をセナに奪われたプロストは、この年フェラーリへと移籍した。
当時のF1の勢力図はマクラーレンの1強体制。
フェラーリやウィリアムズが追随するものの戦力差は大きく、
90年にしてもプロストがどこまでやれるのか、未知数という見方もあった。
しかし、フタを開けてみればプロストは、マクラーレン時代とかわらず
マシンを手懐け、王座獲得にあと一歩のところまで迫ったのだ。

641/2は間違いなく「名車」だ。しかしこのマシンの真価を語るには、
プロフェッサーの存在なくして語ることはできない、とプロストファンの私は訴えたいのだ。

フェラーリ 641/2 
 デザイナー:エンリケ・スカラブローニ
       スティーブ・ニコルズ
 エンジン:フェラーリTipo036 3.5L V12(イタリア) 
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ) 
 燃料:アジップ(イタリア) 
 ミッション:フェラーリ製 7速セミオートマ 
 ドライバー 1:アラン・プロスト(フランス)
       2:ナイジェル・マンセル(イギリス)

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・5

 

◆1990 レイトンハウス・マーチ・ジャッド CG901

1990年に誕生した日本系チームのひとつ、レイトンハウス。
英国の古豪「マーチ」を、日本のアパレルメーカー「レイトンハウス」が買収し、
レイトンハウス・マーチとなる。

1970年設立のマーチは古参の中堅チーム、創設者には後のFIA会長M.モズレーも名を連ねる。
かたやレイトンハウスは不動産業を展開する丸晶興産が立ち上げたアパレルブランド。
80年代前半から全日本F3、F3000のチームスポンサードを始め、87年よりF1マーチと提携。
90年にマーチとの提携という形でF1界への参入を果たすに至る。

このクルマは、当時から「空力の鬼才」と呼ばれ
後に「空力の天才」としてGP史上にその名を轟かす名デザイナー
エイドリアン・ニューウェイの初期の傑作のひとつであり、
その後移籍したウィリアムズで無敵時代を築く礎となったマシンだ。

ドライバーはマウリシオ・グージェルミンとイヴァン・カペリという若い2人。
エンジンは英国のビルダー、ジャッド製の非力なEV-V8。
ジャッドは基本的にホンダのレーシングエンジンをベースにF1エンジンを作製しており、
このEV-V8はもともとホンダのF2用V6エンジンに2気筒足して
CART用にホンダと共同開発したAV-V8が元である。
そんなこんなでバブルに沸く日本企業が大いに携わったチームだったが、
お世辞にも高い戦闘力を持つチームとは言えなかった。
しかし、若い2人のドライバーは随所で速さを見せたし、何よりニューウェイ作のこのクルマ、
クセは強かったがハマればとんでもなく速かった。
航空工学の世界からF1界へ飛び込んだニューウェイは、空力という概念がF1において
まだまだ不確実要素であった当時からマシンを取り巻く空力の流れに着目。
88年に彼が初めて設計したF1マシン・マーチ881は、NA勢ながら時折ターボ勢を食う走りを見せた。
日本GPでは一時、マクラーレンのA.プロストを抜きトップを快走したほどだ。
そして90年のこのCG901である。足回りが弱かったが故にシャシー性能がついていかず、
バンピー、ツイスティなコースでは滅法弱かったが、フラットな高速コースでは
とんでもない速さを見せ、当時のカレンダーにおいて1、2を争う高速コース
「ポール・リカール」で行われた第7戦フランスGPでは、
地元の英雄A.プロストを抑えて一時1-2走行を展開。
その後トップを走っていたグージェルミンはトラブルでリタイヤするも、
最終的にはカペリが2位表彰台登壇という大健闘を見せた。

F1界随一のハイスピードトラックで、

V8搭載車が他のV10、V12勢を上回る活躍を見せたのだ。
レース後、タイヤチョイスについて質問されたカペリが
「タイヤ? 黒くてまるいヤツだよ」と答えた会見も有名だ。

ニューウェイのマシンに共通して見られるのが、空気の流れを意識した流麗なフォルム。
このCG901について言えば、ともすれば女性的にすら見える流線形ボディと、
「レイトンブルー」が非常に美しいマシンだと思う。
ハマると速かったが、クセがありすぎて安定した成績を残せなかったため、
活躍はこのフランスGPのみだったが、このクルマと同じ設計思想に基づいて開発された
ウィリアムズFW14以降のシリーズは、その後のウィリアムズの無敵時代を築き、
さらにはその後のF1全体のマシン設計思想の方向性を「空力絶対時代」へと
導く大きな起点となるとともに、「エアロダイナミクス」という言葉を
F1界に深く浸透させた。
先に紹介したFW14とマシン細部のディテールを見比べていただければ、
FW14にこのCG901の思想が受け継がれていることがわかるだろう。

ちなみにレイトンハウスは、国際F3000参戦時からカペリをバックアップしており
社長の赤城明氏はカペリを寵愛していたが翌年、
赤城明氏が富士銀行不正融資事件で逮捕され、チームのオーナー権を放棄。
レイトンに変わる大口スポンサーを確保できなかったマーチもそのまま消滅、
21年にわたる歴史に終止符がうたれた。
赤城元社長は2018年8月、73歳でこの世を去った。


◇レイトンハウス・マーチ CG901 
 デザイナー:エイドリアン・ニューウェイ
       グスタフ・ブルナー 
 エンジン:ジャッドEV 3.5L V8(イギリス) 
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ) 
 燃料:BP(イギリス) 
 ミッション:マーチ製 6速マニュアル 
 ドライバー 15:マウリシオ・グージェルミン(ブラジル) 
       16:イヴァン・カペリ(イタリア)

 

 

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手前がグージェルミン車(15番)↑↑↑

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手前がカペリ車(16番)↑↑↑

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グージェルミン車↑↑↑

 

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カペリ車↑↑↑

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リアビュー。AUTOGRASSのデカールが若干ズレてる汗汗↑↑↑ 

今気づいた・・・

 



  

ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・4

◆1992 マクラーレン・ホンダ MP4/7A

前回紹介のウィリアムズFW14が、後継機であるFW14Bを投入してきた1992年。
対するマクラーレンは、既に尻に火がついた状態で開幕戦を迎えた。
それまで盤石だったマクラーレン、ホンダ、セナの牙城には昨シーズン、
ウィリアムズ、ルノー、そしてマンセルという猛獣によって、癒えることない大きな爪痕が刻まれ
既に尻尾を掴まれて引き摺り下ろされる一歩手前まで来ていたのだ。

開幕してすぐ、マクラーレン陣営の不安は現実のものとなる。
開幕戦南アフリカGPで早速優勝を飾ったウィリアムズのマンセルは、
そこから第5戦サンマリノGPまで怒涛の5連勝。うち4戦はR.パトレーゼとの1-2フィニッシュで
ドライバーズ、コンストラクターズともにマクラーレンは、序盤ですでに
逆転不可能な程のマージンをウィリアムズに与えてしまう。
マクラーレンは開幕から2戦を、前年の改良型MP4/6Bで戦うが、
ウィリアムズの92年型マシンFW14Bがセミオートマに加えてアクティブサスという
ハイテク武装を追加してきたのに対し、マクラーレンセミオートマすら未導入。
第3戦で投入したこのMP4/7Aでようやくセミオートマを搭載したものの、
アクティブサス搭載のFW14Bには太刀打ち出来ず。
V12へシフトしたホンダエンジンも、出力アップに比して重量増となり、
しかも気筒数増に伴い中低速トルクをロスするというジレンマに陥る。
王座死守は絶望的な状況に追い込まれ、マクラーレン・ホンダとセナは第6戦モナコGPを迎える。
ちなみにこの年ウィリアムズは、当初FW15という新車を投入する予定でいた。
しかし、アクティブサスの熟成の為に使用していた91年の改良シャシー
FW14Bで開幕5連勝を達成してしまったため、
92年をFW14Bで戦えると判断したウィリアムズ首脳が
FW15の投入を翌93年まで先延ばしにしたという経緯がある。
FW14Bは、それほどまでに高い戦闘力を発揮していた。

悲壮感を通り越して絶望感すら漂うマクラーレンだが、
しかしこの伝統のモナコマクラーレンとセナが奇跡をおこす。
レースは例によってマンセルが、開幕6連勝はもはや確実という独走状態。
スタートでパトレーゼの前に出て、2番手でレースを進める「モナコマイスター」のセナだが、
マンセルに肉薄することは出来ず、逆にマンセルに30秒近く水を開けられていた。
しかし残り8周、左リアのホイールに違和感を感じたマンセルが、突如タイヤ交換のためピットイン。
大きく開いていたマンセルとの差を逆転したセナが、期せずしてトップに立ち、
ここからF1史上に残るセナvsマンセルの「伝説のバトル」が展開される。

怒涛のように追い上げるマンセルと、薄氷を踏む思いでマンセルを押さえ込むセナとの
手に汗握るドッグファイト。圧倒的にスピードで上回るマンセルを、
市街地というコース特性と巧みなブロックラインで押さえ込むセナ。
マンセルを抑えきってシーズン初優勝を飾ったセナのマシンは、
ゴールと同時に白煙を上げてエンジンがブローアップした。
表彰台でシャンパンファイトに臨んだセナとマンセルだが、最後の8ラップに死力を尽くしきった
マンセルは、シャンパンファイトの後地面にへたりこんだ。
92年シーズンで最も印象に残ったレースを制したクルマが、このMP4/7Aだった。
実況の三宅アナ(フジTV)の「抜けない!抜けない!どんなにしても抜けない!
ここはモナコモンテカルロ!絶対に抜けないっ‼︎」は、ファンの間では未だ語り継がれる名実況である。

結局マクラーレン陣営が満を持して投入したこのマシンも、他にはさしたる戦果はなく。
マクラーレンは長らく続いた王座を、あっさりとウィリアムズに明け渡す。
年間9勝を挙げたマンセルは、早々と第11戦ハンガリーGPでチャンピオンを決めたのである。
だが、絶望的な状況で見せたモナコでの大逆転劇、そしてこの年で終了が決まっていた
ホンダ第二期F1活動の締め括りを、最終戦オーストラリアでG.ベルガーが勝利で飾るなど、
印象的な走りは随所に見せた。

さしたる成果のなかったマシンではあるが、
それまでのMP4シリーズとは、特にフロント部の形状を大きく変えてきており、
先代のMP4/6よりややシャープになった印象を受ける。
それまでのマクラーレンのマシンは、個人的には好きではなかったが、
この時代のマクラーレンのマシンとして、このMP4/7Aは私が最も好きなマシンである。

マクラーレン MP4/7A 
 デザイナー:ニール・オートレイ
       アンリ・デュラン 
 エンジン:ホンダRA-122E/RA-122E/B 3.5L V12(日本) 
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ) 
 燃料:シェル(オランダ) 
 ミッション:マクラーレン製 横置き6速セミオートマ 
 ドライバー 1:アイルトン・セナ(ブラジル)       
       2:ベルハルト・ベルガー(オーストリア

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・3

◆1991 ウイリアムズ・ルノー FW14

1991年、F1界の勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。

1983年、ホンダの第二期F1活動がスタート。
その後86、87年はウィリアムズで、88年から91年まではマクラーレンで、
供給先は変われど6年連続でコンストラクターズ王者に輝き、
ホンダエンジンは当時F1界において「最強エンジン」の名を欲しいままにしていた。
しかし1991年、その「ホンダ最強神話」に陰りが見え始める。
フランスのルノーが急速に競争力を高め始めたのだ。

ルノーは1977年、コンストラクターとしてF1に参戦。
F1に初めて「ターボエンジン」を持ち込み、「ターボ時代」の扉を押し開いた。
84〜86年の3シーズンは、自チームの他に名門ロータスへエンジン供給もしており、
10年の活動期間において計20勝をあげるもドライバーズ、コンストラクターズ共に
王座には届かずに一旦活動を休止する。
しかし2年ののち1989年、ウィリアムズをパートナーに、エンジンサプライヤーとしてF1に復帰。
89年には早くも2勝をあげ、90年も2勝した。
とはいえ当時はマクラーレン・ホンダフェラーリの2強時代。
90年当時はまだこの2チームとは歴然とした戦力差があり、
91年においてもウィリアムズ・ルノーの戦力は、2強に次ぐ3番手と見られていた。
しかし、80年代後半にホンダと共にGPを席巻したウィリアムズは、
ルノーと共に着々と反撃体制を整えつつあり、91年はまさに
ウィリアムズとルノーによるF1界の政権交代が、ごく近い将来実現するであろうことを、
誰もが実感するシーズンとなった。

序盤は速さを見せつつも、メカニカルトラブルで
完走できないレースが多くポイントも伸び悩んだ。
しかし第6戦メキシコGPではR.パトレーゼが初勝利。
2位にはチームメイトのN.マンセルが1秒差で続き、1-2フィニッシュを決める。
その後は第7戦フランス、第8戦イギリス、第9戦ドイツと、真夏の高速ラウンドをマンセルが3連勝。
マクラーレン・ホンダとA.セナの当時最強と言われたパッケージを脅かす活躍を見せる。
終盤は大きな危機感を抱いたマクラーレン・ホンダが巻き返しを見せ、
結果ドライバー王座はセナが、コンストラクター王座はマクラーレン・ホンダが死守するも、
マクラーレンとウィリアムズの最終的なコンストラクターズポイントは僅かに14点差。
最強ホンダの牙城は瓦解し、ここから長期低迷が始まるフェラーリを追い落とし、
ランキング2位をものにする。

時はエンジンのマルチシリンダー化時代、伝統のV12にこだわり戦うフェラーリに対し、
ホンダもパワーアップの為この年からV12へシフトする中でパワー、重量、ピックアップの
バランスを重視したルノーは、V10にこだわり開発を続けた。
マシンはと言えば、当時「空力の鬼才」と騒がれはじめていた新進気鋭のデザイナー
A.ニューウェイを迎えた。コンセプトを一新し、パワー偏重のライバル陣営に対し、
ドライバビリティとバランスを重視。さらにこの頃はまだ一般的ではなかったセミオート
マチックトランスミッションを投入し、翌年にはアクティブサスという具合に、
ウィリアムズのマシンは最新の空力理論とハイテクデバイス武装し、
一気にチャンピオン街道を駆け上がってゆくのである。

このFW14は翌92年、圧倒的な強さでドライバーズ、コンストラクターズのWタイトルを獲得し
その後数年続く「ウィリアムズ・ルノー最強時代」への布石となるマシン。
「無冠の帝王」と呼ばれた苦労人N.マンセルは、翌年39歳にしてに悲願の世界王者となり、
チームメイトの「鉄人」R.パトレーゼも、200戦以上に及ぶ戦歴においてキャリアハイを記録。
このシーズンを期にウィリアムズ・ルノーは、F1界の旗手へと一気に駆け上がってゆく。

91年シーズンはまさに「時代が変わった」シーズンであり、
「時代を変えた」のはこのFW14だった。

 

◇ウィリアムズ FW14 
  デザイナー:パトリック・ヘッド     
        エイドリアン・ニューウェイ 
  エンジン:ルノーRS3C/RS4 3.5L V10(フランス) 
  タイヤ:グッドイヤーアメリカ)

  燃料:エルフ(フランス) 
  ミッション:ウィリアムズ製6速セミオートマ  
  ドライバー 5:ナイジェル・マンセル(イギリス)

        6:リカルド・パトレーゼ(イタリア)

 

 

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・2

 

◆1990 エスポ・ラルース ・ランボルギーニ ローラLC90

時は空前のF1ブームであった1990年、
このマシンは、前回紹介のティレル018と同時期に活躍したクルマだ
(実際018は第2戦まで、LC90は第3戦から投入の為、被ってはいない)
このローラLC90は、2人目のフルタイム日本人ドライバー鈴木亜久里が駆ったマシン。そして、その鈴木亜久里が日本モータースポーツ史に、現在も輝き続ける快挙を達成したマシンでもある。

ラルースは、1987デビューのフランスの弱小チームで、1990年に日本企業に買収され「エスポ・ラルース」となる。
バブル絶頂期の当時は、日本企業に買収された「日本系チーム」が乱立した。フットワーク、レイトンハウス、スバル・コローニ…
ちなみに「エスポ」とは、公共サウナ施設等を展開していた会社である(不動産業が母体)。元々亜久里の個人スポンサーだったエスポが、ラルースを買収。ラルースのオーナーとなったエスポの伊藤和夫社長は、亜久里を我が子のようにサポートした。

1988年にラルースからF1にスポット参戦した亜久里は、1989年にザクスピードというチームからフルタイムドライバーとしてデビューする。しかし、このドイツのプライベーターのマシンにはおよそ戦闘力と呼べるものはなく(搭載されたヤマハエンジンしかり)、亜久里は全16戦全てで予備予選落ちに終わる。
参加チームが多かった当時、約40台近くのマシンが、26台の決勝進出枠をかけて予選を戦った。その為、予選に進む為に通過しなければならなかったのが予備予選。
亜久里は、一度も予選にすら進むことなく、屈辱の89年シーズンを終える。
しかし90年、エスポがオーナー企業となったラルースに移籍した亜久里は、開幕戦アメリカGPで予備予選を突破し、18番手で予選も突破。決勝へと駒を進める。レース途中、一時は8番手まで浮上。マシントラブルでリタイヤしたものの、確かな手応えをつかむ。
その後は経験の浅さから来るミスや、トラブルでリタイヤが続いたものの第5戦カナダGPで初完走。第3戦から投入されたこのLC90と共に、その後第8戦イギリス、第14戦スペインで共に6位入賞、2ポイントを獲得しグレーテッドドライバーの仲間入りをはたす。
そして迎えた第15戦日本GP、ようやく戦えるマシンを携えての凱旋帰国となった亜久里は、なんと日本人ドライバーとして初めて3位入賞し、母国で表彰台登壇を果たすのだ

90年の日本GPは、この年も王者決定の舞台となる。確執が深まっていたマクラーレンのA.セナとフェラーリのA.プロスト。二人の天才が王者を争った90年日本GPは、オールドファンならご存知の通り、スタート直後の二人の接触によりあっけなくセナが王者獲得。
その後も強豪が次々と消えていき、気がつけばベネトンが1-2体制。それに続く形で亜久里は3位入賞となる。
上位勢総崩れで棚ボタの3位であったことは確かだが、トラブルも多く完走率の低かった当時のF1では、完走することが最重要であった。さらに当時はマクラーレンフェラーリ、ウイリアムズ、ベネトンが4強と言われ、中でもやや戦闘力の劣るウイリアムズ、ベネトンと上の2チームには、決して小さくない戦力差があった。それでもチーム力はこの4強が抜けており、そこにどう食い込むかがラルース他中堅、弱小チームの目標だった。
さらに、この頃にはラルースのマシンも熟成度が増しており、日本GPに限って言うならば、確実にウイリアムズの2台より亜久里のラルースの方が速かった。
レース終盤には燃費もきつくなり、ペースを抑えながらも亜久里は3位を守り切った。

マシンはラルースの自前ではなく、シャシーメーカーであるローラが作成。これにランボルギーニ製のV12が載った。
バランスがよく、ドライバビリティに優れたマシンには、エスポの他東芝、ゲオ、東和、ユニシスなど、日本企業のスポンサーロゴが踊った。

その後は日本のバブル景気が崩壊し、エスポは一年でオーナー企業から撤退。エスポの後ろ盾を失ったチームは低迷、亜久里も91年いっぱいでチームを去る。
その後ラルースは資金難のため94年をもって撤退。90年の走りを評価され、ベネトン入りを打診された亜久里も、91年のラルースとの契約を優先させた結果その後、95年にF1キャリアを終えるまで上位チームから再び声がかかることはなかった。

バブルのように膨れてはじけた、ラルースと亜久里のキャリア。LC90はまさに、90年代当時の日本とF1の関わりを象徴するようなマシンかもしれない。

◇ラルース・ローラLC90 
 デザイナー:クリス・マーフィー       
       ジェラール・ドゥカルージュ 
 エンジン:ランボルギーニ3512 3.5L V12(イタリア) 
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ) 
 燃料:BP(ブリティッシュ・ペトロリウム)(イギリス) 
 ミッション:ラルース製6速MT 
 ドライバー 29:エリック・ベルナール(フランス)       
       30:鈴木 亜久里(日本) 

 

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