☆★☆ぽんつかのF1名(迷)車列伝☆★☆

☆ぽんつかのF1(をはじめとする)ミニカーコレクションの紹介☆

ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・15

◆1990 マクラーレン・ホンダ MP4/5B

1990年は、私や私の周りの友人たちが、
本格的にF1に夢中になり始めた『俺たちのF1元年』だ。
F1を見続けて30年になる私だが、今でも一番面白かったシーズンは?
と聞かれれば、迷うことなく『1990年』と答えるであろう。
それほど、90年シーズンは面白かった。

さまざまなドラマがあったが、90年シーズンの主幹はやはりなんといっても
セナvsプロストだった。しかし、実はシーズン開幕直後はこの人も注目されていた。
オーストリア人ドライバーのゲルハルト・ベルガーだ。
今回は、前回のベネトンB197に引き続き、90年の『マクラーレンのベルガー』
に焦点を当ててご紹介したいと思う。

同郷の大先輩ニキ・ラウダ、ヘルムート・マルコに推され 、
(H.マルコは現レッドブルのアドバイザー)
84年にF1デビューしたベルガーは、86年に在籍したベネトンで初優勝を飾る。
その後は速さを認められてフェラーリ入り。御大エンツォの存命中に
『跳ね馬』に加入した最後のフェラーリドライバーとなったベルガーは、
荒削りな走りながら一発の速さに定評があり、なによりも
『記憶に残る勝利』を演出するドライバーだったのは前回述べた通りだ。
88年、セナとプロストのコンビでシーズン全勝する勢いだった無敵のマクラーレンに、
唯一フェラーリの地元モンツァで土をつけたのがこのベルガーだ。

その後、セナとの確執からマクラーレンを離れ
フェラーリへ移籍したプロストと、入れ替わりでマクラーレン入りしたベルガー。
90年開幕直後はセナ、プロスト、マンセルとともに 『四天王』と呼ばれた。
(90年アメリカGPの中継の冒頭で、解説の故今宮純さんがはっきりと述べている。)
しかし、マクラーレンでのベルガーは、セナの影で苦しんだ。
度々犯すポカにも問題はあったが、チームはあからさまにセナ寄りの体制で
チームでは完全なる『ナンバー2』としての扱いを受けてしまった。
この90年のマシンMP4/5Bはもともと、89年のマシンMP4/5の改良型。
そしてそのMP4/5はもともと、89年まで在籍していたアラン・プロストに合わせて
設計されていた。身長186cmとF1ドライバーとしては大柄なベルガーには
小柄なプロストに合わせて設計されたマシンのコクピットのサイズが合わず、
時折犯してしまうポカミスの原因の半分はここにあったことは言うまでもない。
またチーム、そしてホンダがセナを優先するあまり、
セナよりも重たいマシンで走らされたり、セナとは仕様の違うエンジンで
走らされたりと、『ナンバー2』としての扱いは90年シーズンを終えて
確定的なものとなってしまう。90年は結局未勝利に終わり、評価も落ちた。

しかし、内向的で神経質な性格で、さらに譲らない性格のため
度々無謀ともとれる走りで敵を作りこそすれ友人の少なかったセナが、
唯一大親友と認める存在であり、セナのサポート役に徹した。
90年のMP4/5Bは、セナのチャンピオンマシンだが、ベルガーにとっては
あまりいい思い出のないマシンかもしれない。しかし、この年の開幕前
スーパーライセンス発給問題でF1をドライブできなかったセナに代わって、
このマシンのテストにべったり携わったのはベルガーだ。
(セナがシーズン前のテストに一切関わらないのはいつものことで、これには
アラン・プロストも辟易していたと語る)
第5戦カナダGPではスタート時のフライングで、レースタイムに1分を加算される
ペナルティを科せられながら、スタート前に振った雨でハーフウェット状態のコースを
とんでもないペースで走り、4位入賞を勝ち取った車でもある。

MP4/5Bは、良くも悪くもベルガーらしさが出たシーズンの車だった。
それに、やっぱりベルガーにはカーナンバー『28』がよく似合う。

マクラーレン MP4/5B
 デザイナー:ニール・オートレイ
 エンジン:ホンダ RA100-E 3.5L V10(日本)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:マクラーレン製6速MT
 ドライバー 27:アイルトン・セナ(ブラジル)
       28:ゲルハルト・ベルガーオーストリア

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・14

◆1997 ベネトンルノー B197

オーストリア出身のゲルハルト・ベルガーは、
90年代を代表するF1ドライバーの1人だ。
1984年にATSよりデビューし、86にベネトンで初勝利。
以降97年までの14年間、マクラーレンフェラーリでも活躍した。
速さもさることながら、プレイボーイで悪戯好き。そんなお茶目なキャラクターも
人気だった。当時の関係者やファンで、ベルガーのことを嫌いだという人間を、
少なくとも私は知らない。フェラーリ時代はティフォシに熱烈な支持を受け、
マクラーレン時代はスーパースター・アイルトン・セナの陰で苦しんだ。
それでも持ち前の明るいキャラクターで、常にパドックの人気者だった。
神経質でクセの強い人柄のセナとも親友と呼べる関係を築いた。
ただ、タイトルを期待される速さを持ちながら、14年のキャリアで彼が
GPであげた勝利は10。タイトルにはついぞ手が届かなかった。

90年代までのF1においてGPで10勝を達成するというのは
それなり以上に偉大な記録であった。しかし、同時にF1に14年間在籍するという
記録もなかなかのもので、翻って14年間F1に在籍したトップドライバーの数字として
考えた時に、10勝といういのはいささか寂しい数字であることは否めない。
しかし、このゲルハルト・ベルガーという男は、信じられないくらいに
印象に残るシチュエーションでの勝利が多い。14年間での10勝は、
他に類を見ないほど濃密な内容の10のレースに彩られている。

今回紹介するのはそんな愛すべき男ベルガーが
キャリアを終えたマシンである。チームメイトは93年のフェラーリ在籍時以来
この年まで5年間ずっとコンビを組み、こちらも親友と認め合うほど
仲良しのジャン・アレジだ。しかし残念ながらベネトン移籍後のアレジには、
目立った活躍がないため今回はベルガーのF1における生涯戦績を語らせていただこう。

それでは、これ以上ない程にドラマチックなエピソードに彩られた、
ベルガーのGP10勝を列挙してみよう。


1勝目・・・86年メキシコGP(ベネトン
自身の初優勝が、所属するベネトンチームのF1初優勝。

2勝目・・・87年日本GP(フェラーリ
この年鈴鹿で初開催の日本GP。日本で本格的にフジTVでの全戦中継が始まった
いわゆる『F1元年』における日本GPで、PPを獲得したうえそれまで低迷していた
所属チームフェラーリにとって2年ぶりとなる勝利。

3勝目・・・87年オーストラリアGP(フェラーリ
フェラーリにとって6年ぶり、自身初となるGP連勝。
ポールポジション、ファステストラップ、優勝、レース中全周回ラップリーダー
という『グランドスラム』達成。

4勝目・・・88年イタリアGP(フェラーリ
結果的に全16戦15勝と、圧倒的な強さでGPを席巻したセナ、プロスト
マクラーレン・ホンダに、フェラーリの地元イタリア・モンツァで唯一土をつける
優勝。またこのレースは、フェラーリ創始者エンツォ・フェラーリ』が
死没したひと月後の開催。フェラーリにとっては『エンツォの弔いレース』だった。

5勝目・・・89年ポルトガルGP(フェラーリ
第2戦サンマリノGPでマシントラブルから時速200kmオーバーで1コーナーを直進、
大クラッシュして炎に包まれる。しかし奇跡的に顔や手の軽いやけどで済んだ
ベルガーは、翌々戦には復帰し第13戦ポルトガルで復活の勝利をあげた。
セミオートマ導入初年度であまりに信頼性の低さから15戦中12度リタイヤを喫したが、
その中で唯一上げた勝利。

6勝目・・・91年日本GP(マクラーレン
最終ラップの最終コーナーで、チームメートのセナに露骨に譲られ、
移籍後約2年を要してのマクラーレン初勝利。セナの王者獲得をサポートしたこと
に対するもので、日本ではセナの美談となったが、チーム内や世界中で
物議論争の対象になる。

7勝目・・・92年カナダGP(マクラーレン
ウィリアムズ・ルノー独走のシーズンで、ウィリアムズ勢やセナを抑え
マクラーレン移籍後初めての『自力優勝』。また自身初の9月以前での優勝。

8勝目・・・92年オーストラリアGP(マクラーレン
ホンダのF1第2期活動最終戦で優勝。第3期の活動が再開され、
2006年にジェンソン・バトンが優勝するまで、ホンダF1最後の優勝だった。

9勝目・・・94年ドイツGP(フェラーリ
90年のスペインGPを最後に、またまた勝利から見放されていたフェラーリに、
3年半ぶりの優勝をもたらす。自身2度目の、低迷するフェラーリを救う『復活V』。
またこの年は大親友であるセナを事故で失い、引退も考えていた中での優勝劇であった。

そしてこの写真のマシンが10勝目をあげたマシン。
96年にフェラーリシューマッハを獲得し、アレジとともに追われるように
ベネトンに移籍したベルガー。しかし、シューマッハと共にロス・ブラウン
ロリー・バーンといった首脳も引き抜かれ、落ち目にあったベネトンで苦戦。
さらにこの年、慢性ちくのう症の治療で3戦を欠場している間に
父親が飛行機事故で他界。悲しみの中で復帰したドイツGPで、
PPスタートからの完全勝利。前年96年、同じくベネトンルノーでトップを快走するも、
43周目(残り3周)にエンジンブローでリタイヤしたリベンジも果たす

まさに『高速サーキットの申し子』ベルガーの真骨頂といえるレースを最後に
現役を引退した。ベルガー最後のウィニングマシン、それがこのB197。
そして、2001年ルノーに買収されてその歴史に幕を閉じる
ベネトンフォーミュラ1』チームにとっても、最後のウィニングマシンである。
全くこのベルガーという男、『Mr.メークドラマ』ですな。

※背景写真に入れた『ベネトンルノー』の文字が『ベネトン・ルモー』に
 なってしまいました。撮り直しも面倒なのでこのまま掲載します。あしからずww

ベネトン B197
 デザイナー:パット・シモンズ
       ニック・ワース
 エンジン:ルノー RS9、RS9A、RS9B 3.0L V10(フランス)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:アジップ(イタリア)
 ミッション:ベネトン製6速セミオートマ
 ドライバー 7:ジャン・アレジ(フランス)
       8:ゲルハルト・ベルガーオーストリア

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・13

◆1997 アロウズヤマハ A18

1997年シーズンのF1は、開幕前から異例の事態が発生していた。
前年の王者デイモン・ヒルが、チャンピオンチーム・ウィリアムズから
放出されたのだ。実際のところデイモンが97年の契約を結ばない旨を
チームから通達されたのは96年のイタリアGP後であるのだが、
結果的に96年王者となった後も、チームの方針は変わらなかった。
97年をもってF1活動を終了するパートナーのルノーに代わり、
ウィリアムズはBMWとのエンジン契約を進めており、
BMWは契約の条件としてドイツ人ドライバーの起用を求めていた。
このため、将来性のあるジャック・ヴィルヌーヴ(カナダ人)は残留させ、
ドイツ人のハインツ・ハラルド・フレンツェンを迎え入れた。
その結果、前年の王者であるヒルがはじき出されてしまったのである。

往年のF1王者グラハム・ヒルの息子であるデイモンだが
1984年までは二輪で走っており、四輪に転向したのが23歳と遅咲きだった。
そのためF1デビューが31歳だった彼は王座獲得時点で36歳。
今後の伸びしろもないと判断されたか、結果ヒルは下位チーム
であるアロウズ都落ちすることとなる。

1978年に5名のエンジニア有志で設立されたアロウズだが、
GPでは長年中堅以下に甘んじていた。しかしこの年、『辣腕』として知られた
トム・ウォーキンショウがアロウズを買収し、上位進出を目論んでいた。
しかし実際に97年シーズンが開幕してみると、戦闘力は上位には到底及ばず。
相方のブラジル人ペドロ・ディニスとともに下位でのレースを余儀なくされ、
デイモンは前年王者とは思えないシーズンをすごすこととなる。
それでも、シーズン後半には戦闘力を高めてくる。
第11戦ハンガリーGP、予選3番手からスタートしたデイモンは、
残り2周というところでギヤボックストラブルに見舞われるまでトップを快走。
あわやアロウズ初優勝か?? というところまで迫る。
搭載されたヤマハエンジンにとっても、勝てばF1初勝利だった。
レースは最終周にウィリアムズのヴィルヌーヴにかわされるも、
デイモンはギアが3速にスタックした状態で残り1周半を走り切り、
堂々の2位表彰台登壇。1年前にチームメイトとして、そして王者を争った
ライバルとして戦ったジャックとデイモンは、
パルクフェルメで熱い抱擁を交わしたのだった。

結局この年の見せ場はそれだけだったが、
この2位表彰台はデイモンを過小評価する連中を黙らせるのには十分だった。
明らかに戦闘力の劣るマシンで予選3番手につけ、ブリジストンタイヤの性能を
うまく生かしての快走。王座に輝きながら尚デイモンの実力を疑問視する者たちに、
目に物見せる圧巻のレースぶりを展開したのだった。
トップドライバーとしては決定的に闘争心が欠けているとか、シューマッハ
オーバーテイクできないとかさんざん言われたデイモンだが
このレースではシューマッハの駆るフェラーリを、1コーナーでズバッと
鮮やかに追抜くシーンも見せた。デイモンを応援し続けた私も溜飲を下げた。

またパートナーのディニスも、苦しみながら第15戦には5位入賞。
ポイントゲットを果たす。ブラジル有数の実業家を父に持つ彼は、
父親の手厚いサポートのもと各カテゴリを戦い、実力が伴わないのに
豊富な持ち込み資金でシートを得る『ペイドライバー』と言われ続けた。
F1に『ペイドライバー』という言葉を根付かせた代表格と言ってもいい。
(それ以前にも似たようなドライバーはたくさんいたが)しかし、真摯に
レースに取り組む姿勢で戦いながら成長した彼は、アロウズでも結果を出した。
また、ディニスはいかなる状況でもクレバーに対処し、マシンの状況を的確に
エンジニアに伝えるデイモンの姿に、「明らかにそれまでのチームメイトとは
違っていた。デイモンから学んだことは多かった。」と後に語っている。

フランク・ダーニーの設計によるマシンは信頼性が致命的なまでに欠如しており
ウォーキンショウとの意見の相違からダーニーは序盤でチームを去る。
その後は『天才』ジョン・バーナードが加入し、バーナードが改修を加えた
マシンは次第に、信頼性と戦闘力を向上させていった。
しかし、デイモンは結局この年限りでアロウズを離れジョーダンへ移籍。
翌98年に雨のベルギーで自身キャリア最後の勝利を挙げ、
ジョーダンにF1初優勝をもたらすのだ。

決して速いクルマではなかったが、非常にカッコイイクルマ。
タバコ広告が全面禁止になる直前の、F1スポンサー企業の傾向が変わり始める
過渡期のクルマ。メインスポンサーの『DANKA』はフロリダのOA機器商社だった。
そして、ただ一度アロウズがカーナンバー1をつけたクルマ。
私の好きなドライバーベスト5に入るD.ヒルのクルマ。
戦績云々は別にして、個人的に非常に大好きで印象深いクルマである。

ちなみに前回FW18の項でも触れたが、ウィリアムズ時代のデイモンは
「マシンのおかげで王者になれた」という評価を下されていた。
しかし、4度の世界王者アラン・プロスト、ウィリアムズのTD、
パトリック・ヘッドなどはデイモンのマシンの開発、仕上げ、タイヤの使い方など
様々な能力の高さを認めており、第2期ルノーF1の開発責任者である
ベルナール・デュドは「最もプロストに近い走りをする」と称賛した。
また、当時ウィリアムズに在籍した天才デザイナーエイドリアン・ニューウェイは、
デイモンの解雇に激怒しウィリアムズを離脱した。
デイモンの実力を語るには、これ程分かりやすいエピソードもないだろう。
ドライバーの起用についてはブレない方針を持ち、冷徹な決断を下すことで
知られるフランク・ウィリアムズも「あれは大きな失敗だったな」と認めている。
ウィリアムズは、デイモンとニューウェイの離脱をきっかけに衰退し、
ついに2020年9月、創業者一族の手を離れることとなった。

 ◇アロウズ A18
 デザイナー:フランク・ダーニー(基礎設計)
       ジョン・バーナード(改善・改良)
 エンジン:ヤマハ OX11A/C、OX11A/D 3.0L V10(日本)
 タイヤ:ブリジストン(日本)
 燃料:ペトロサイエンス(マレーシア)
 ミッション:アロウズ/X-trac社製6速セミオートマ
 ドライバー 1:デイモン・ヒル(イギリス)
       2:ペドロ・ディニス(ブラジル)
  (フルネーム:ペドロ・パウロ・ファリロス・ドス・サントス・ディニス)

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・12

◆1993 ウィリアムズ・ルノー FW15C

アラン・プロスト特集・3>

今回は名(迷)車烈伝アラン・プロスト特集のラスト!!

特集の最後はプロストのF1最終年、93年のウィリアムズFW15C。
90年に鳴り物入りフェラーリに移籍したプロスト
この年はチームもマシンも、そして自身も好調で王座獲得一歩手前までいくも、
翌91年は一転して大苦戦を強いられる。開幕前の下馬評は高かったものの
蓋を開けてみればライバルのマクラーレンには歯が立たず、
さらに力をつけてきたウィリアムズにも先行を許し、結果91年は未勝利で終わる。
マシンのコンセプトはすでに時代遅れとなっており、
走っても走っても蚊帳の外(91年フジTVF1総集編より)状態のプロストは、
「今のフェラーリは赤いカミオンだ」と発言し、首脳陣との関係が悪化。
結果91年は最終戦を待たずに解雇されてしまい、翌92年は「休養」にあてる。
しかし、休養中もプロストは翌年を見越して動き、
93年は満を持して当時の最強チーム、ウィリアムズ・ルノーから復帰を果たすのだ。

当時のウィリアムズといえば、「空力の鬼才」エイドリアン・ニューウェイ
設計したエアロマシンに、ホンダから「最強」の座を奪ったルノーV10。
そしてなによりも、アクティブライドをはじめとするハイテクデバイス満載の、
最強マシンを要する文字通り「F1界最強」のチームだった。
当然最強チームにはトップドライバー達がこぞって移籍を目論むわけで、
プロストの他にもセナが「無報酬でも構わないから乗りたい」とアピールしていた。
そして、このプロストとセナのラブコールの割を食った形でマンセルが離脱。
92年、マンセルはウィリアムズで王座を獲得したものの、
チームが、プロストやセナとも交渉をもっていることをマンセルとの交渉のダシ使い、
93年の契約更新について給料の大幅減額を提示した。
これにプライドを傷つけられたマンセルは、ウィリアムズとの契約を更新せず
突如引退会見を行い、93年からの米国CARTへの転向を宣言するのだ。
ちなみに当時No.2ドライバーだったリカルド・パトレーゼも、
チームの方針に嫌気がさしこの年でウィリアムズを離脱している。

かくして当時のF1界最強チームのシートを射止めたのはプロストとなったわけだが、
確実とみられていた4度目の世界王者への道は平坦ではなかった。
序盤から「嫌い」と公言して憚らない雨のレースが続いたり、
ハイテク武装されたFW15Cの扱いには、アナログ世代のプロストはやや手を焼いた。
それでもプロストは結果シーズン7勝をあげ、表彰台には優勝含め12度登壇。
年間100に迫る99ポイントを獲得し、4度目の世界王者に輝いた。
しかし、シーズン前に起きたFISAのライセンス発給拒否騒動や、
シーズンイン後の不可解なペナルティなど、F1を取り巻く
「あらゆることに嫌気がさしてしまった」プロストは、この年限りで引退を決意する。
徐々に牙を剥き始めたチームメイト、デイモン・ヒルの台頭もあり
このあたりで後進に道を譲るべきだと感じたのかもしれない。
プロストは当時のデイモンの成長について
「デイモンの存在が真剣に僕の心を掻きむしるんだ」と語っており、
チームメイトの急激な成長と、自身の王者としての限界を悟っていたフシがある。
ちなみに当のデイモンはというと、同じセッティングで走っていたプロスト
ステアリング操作が極めて少ないことをテレメトリーデータから知り、
プロストの走法を学ぶようになったという。

F1に復帰、F1に優勝、F1でチャンピオン、F1で引退、1年で全てをやり
男のけじめをしめした(93年フジTVF1総集編より)プロスト
出走202戦、優勝51回、総獲得ポイント798.5、PP33回、FL41回、4度の世界王者は
93年を最後に13年(休養期間除く)のキャリアに幕を下ろした。

ドライバーとしての能力は当代最高。
ただ勝利を、そして勝利を確実にする環境の構築を追い求めるが故に
政治的な動きも多く、チーム首脳などとも衝突し軋轢を生むこともしばしばだった。
日本では完全に「ホンダとセナの敵」として「悪役」と見られてしまったプロスト
93年の開幕戦南アフリカでレース前に今宮純氏のインタビューを受けたプロストは、
今宮氏の「日本のファンへメッセージを」の言葉に、「日本に僕のファンなんて
いるのかい?」と言わんばかりの苦笑いを浮かべながら答えていた。
しかしその実、ケケ・ロズベルグジョン・ワトソン、ジル・ヴィルヌーブや
ディデイエ・ピローニ、ジャン・アレジなど、プロストと仲が良かったり、
ドライバーとしてリスペクトする関係者が多いのも事実。
また、同世代にセナという異質なキャラクターの存在があったことで
80~90年代の愛憎渦巻くF1において「セナプロ対決」という
F1史上最大のライバルストーリーを生んだ。
たとえ悪役だろうがなんだろうが、アラン・プロストの名はこの先も
永遠にF1の歴史に残り続けるだろう。
そんな彼の幼少時のあだ名が「おたまじゃくし」だったということを
知る人は少ないだろうが。。。


◇ウィリアムズ FW15C
 デザイナー:パトリック・ヘッド
       エイドリアン・ニューウェイ
 エンジン:ルノーRS5 3.5L V10(日本)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:エルフ(フランス)
 ミッション:ウィリアムズ製6速セミオートマ
 ドライバー 0:デイモン・ヒル(イギリス)
       2:アラン・プロスト(フランス)


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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・11

◆1986 マクラーレン・ホンダ MP4/5

アラン・プロスト特集・2>

今回の名(迷)車烈伝もアラン・プロスト特集!!

プロスト特集第2弾は89年のチャンピオンマシン、MP4/5である。
マクラーレンは88年、TAGポルシェに代わりホンダエンジンを獲得。
さらにエースドライバー、アラン・プロストの進言もありこの年から
アイルトン・セナが加入。プロスト、セナの最強ラインナップとなったマクラーレンは、
コンストラクターズ王者となり、新加入のセナが初のドライバー王者となる。
88年は全16戦中15勝と、マクラーレンが選手権を席捲。
セナ8勝、プロスト7勝と無敵を誇った二人は、文字通り最強パッケージとなった。
しかし、チームが常勝であるためにセナ獲得を押したプロストの思惑とは裏腹に、
プロストを「斃すべき最大の敵」と定めたセナは、
次第にチームメイトに対しても牙をむいてゆく。
そして、この年の第13戦ポルトガルGPでのセナの、プロストに対する幅寄せに
端を発し、二人の間に微妙な緊張感が生まれ始めるのだった。

そして翌89年、ある事件をきっかけに二人の関係は悪化の一途をたどる。
第2戦サンマリノGPで、バトル激化による同士討ちを避けるため取り交わされた
とされるドライバー間の紳士協定をセナが破った(とプロストは主張する)ことにより
二人の亀裂は決定的なものとなるのだ。
セナはプロストを「斃すべき敵」としか見ておらず、
プロストはそんなセナの強引なまでのドライブを忌避した。
また、「マクラーレンは家族」とまで語り信頼していたチームと、
ホンダ陣営がそれぞれ、セナ寄りの姿勢を示していくとともに
チームとホンダに不信感を抱いたプロストは、シーズン半ばにして
89年限りでのマクラーレン離脱を宣言し、その後フェラーリへの移籍を発表するのだ。

修復不可能な状態までこじれたセナとプロストの関係は
第15戦日本GP、追い越しをかけたセナとインを閉めたプロスト接触によって
最悪の結末を迎える。セナがたびたび見せる、危険をはらんだ追い越しに対し、
「もう彼に対してドアは開けない」と語っていたプロストは、
セナが、前を行くプロストとの接近戦に業を煮やして抜きにかかったシケインで、
文字通りセナの前の「ドアを閉ざした」のだ。
当時は、選手権ポイントでプロストが優位に立っていたこともあり、
プロストが故意にぶつけたのではないかとの憶測が飛んだが、
この二人の争いの根幹にあったのは、そんな目先の損得ではなかった。
セナの時として強引で、危険な追抜きも辞さない走りは
いずれ大きな代償を負うことになると、プロストはセナに身をもって忠告したのだ。
ミニカー後ろの台紙の写真を見てほしい、これは接触直後のものだ。
プロストが左手を上げているのがわかる。
「ほら、だから言っただろう? アイルトン・・・
キミの走り方はいずれこういう事故を生む。それを理解しなければ!」
とでも言いたげな仕草である。
その後の紆余曲折ののち、日本GPのセナは失格裁定がくだり
王座はプロストのものとなる。しかし、その失格の原因が「シケイン不通過」の為
というFISAの裁定には誰もがあからさまな作為を感じた。
当時のFISA会長ジャンマリー・バレストルがフランス人で、
あからさまに同郷のプロストを贔屓し、それに媚びる動きを見せたプロストにも
批判される要因は大いにあった。そのため、「セナとホンダ」を敵に回したプロストは、
日本では完全に「悪役」となってしまった。

後味最悪の決着に、日本GPでの接触についてセナとプロスト
どちらが悪いのか、ファンやメディア、関係者の間で論争が続いた。
ちなみにこのシーズン、マクラーレンは16戦中10勝でコンストラクターズ王座を連覇。
前年の王者セナは6勝をあげ、優勝回数では4回のプロストを上回ったものの、
優勝かリタイヤかのセナに対し、プロストは2位6回3位1回と実に7回も表彰台に登壇。
最終的に総獲得ポイントでセナを21ポイント上回ったプロストは、
この年自身3度目の世界王者となったのである。

マクラーレン MP4/5
 デザイナー:ゴードン・マーレイ
       ニール・オートレイ
 エンジン:ホンダRA-109E 3.5L V10(日本)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:マクラーレン製6速マニュアル
 ドライバー 1:アイルトン・セナ(ブラジル)
       2:アラン・プロスト(フランス)
      

 

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・10

◆1986 マクラーレン・TAG MP4/2C

アラン・プロスト特集・1>

今回の名(迷)車烈伝はアラン・プロスト特集‼️

アラン・プロストは、
私が歴代で最も好きな、最もリスペクトするドライバーだ。
1985年、86年、89年、そして93年と4度の世界王者に輝いたレジェンド。
F1史上唯一のフランス人王者である。
プロストは1980年のF1デビューから1993年の引退までにGP51勝を挙げ、
4度のチャンピオンとなった。これは、マシンの信頼性が低く、
トラブルやアクシデントも多かった90年代までのF1においては驚異的な数字。
特に80年代後半からは、レース展開全体を考慮し安全マージンを取りつつ、
必要に応じてペースを上げ下げするクレバーなレース運びを信条とし、
抜群のセットアップ能力、タイヤにも優しいスタイルから「プロフェッサー」の異名を取った。
デビューイヤーの80年と、所属するフェラーリが絶不調だった91年以外、
F1で走った年は全て勝利を挙げているというのも特筆すべき記録だ。
今回は3回にわたって、プロストがドライブしたマシンを3台紹介する。

特集第1弾は1986年のチャンピオンマシン、MP4/2C。
※バックの台紙が「MP4/3C」になっているが、これは誤り。。。
「TAG」のバッジがついた1.5Lターボエンジンはポルシェが供給。
当時としては先進的なカーボンモノコックを採用したマシンは、
天才と言われたデザイナージョン・バーナードが設計し、
84年投入以降改良を加え、この年まで使用された。
84年にマクラーレンへ移籍したプロストは、75、77年の王者ニキ・ラウダ
チームメイトとして戦った。デビュー当初から非凡な速さを見せていたプロスト
この年予選ではチームメイトのラウダを、16戦15勝と速さで圧倒した。
しかし、勝てないレースでも確実にポイントを拾っていくラウダに及ばず、
わずか0.5ポイント差で王座を逃してしまう。
終戦に優勝しながら王座に届かなかったプロストに対し、ラウダはポディウム
「心配しなくていい、来年はキミがチャンピオンを獲るんだから」と言った。
その翌年プロストはシーズン5勝をあげ、ラウダの言葉通り王者となる。
そして86年、プロストはこのMP4/2Cで王座に輝き、選手権連覇を達成するのだ。
ウィリアムズ・ホンダのネルソン・ピケナイジェル・マンセルとの王座争いとなったこの年は、
選手権をリードしていたマンセルを、プロストが最終戦で逆転し王者となった。

この86年シーズンプロストは第3、4、12戦で優勝を飾るものの、
シーズン自体はウィリアムズ・ホンダが強さを見せ、
終戦オーストラリアを迎えた時点で首位マンセルの70ポイントに対し、
プロストは64ポイントでランキング2位。プロストが逆転王座を決めるには、
プロストが優勝し、マンセルが4位以下」という極めて不利な状態で迎えていた。
しかもレース中にベネトンゲルハルト・ベルガー接触したプロストは、
32周目に予定外のピットストップを強いられてししまう。
苦しい展開のプロストだったが、このピットインの際のタイヤの摩耗状態が勝敗のカギとなった。
プロストのタイヤの摩耗がグッドイヤーの予想を下回っていたため
グッドイヤーのエンジニアが他チームに「タイヤ交換の必要なし」という判断を伝え
これが結果的にプロストを王座へと導くこととなる。
63周目にそれまでトップを快走していたチームメイト、ケケ・ロズベルグのタイヤが
バーストしリタイヤ。さらに64周目にはケケにかわってトップに立ったマンセルの
タイヤもバーストしてリタイヤ。これに動揺したウィリアムズ陣営は、
65周目にトップに立ったネルソン・ピケにタイヤ交換を指示し、
これによりプロストが首位に立つ。
そして、そのままトップチェッカーを受けたプロストが、6ポイント差を逆転し、
前年に続き選手権を連覇したのだ。自身2度目の世界王者は、
59、60年と王座に輝いたジャック・ブラバム以来の選手権連覇の偉業だった。

当時の関係者のだれもが口にするのが、
タイヤを傷めないプロストのドライビングスタイル。
このエピソードは、プロストの真骨頂である「タイヤに優しいドライビング」が
顕著に表れたエピソードだった。
また、予選での速さよりも決勝を戦えるセッティングを見つけることを優先し、
どんな位置からでも勝利に結びつくよう戦略を立て、
勝てないレースでは確実にポイントを拾って帰るスタイルも、
この頃からプロストの真骨頂となっていた。
これは、85年までコンビを組んでいたラウダから学んだレース哲学だった。
それまでのプロストは、自身も語るようにむしろセナのように
予選から全力で速さを追い求めるスタイルだったが、
ラウダの薫陶により、強かに選手権を戦うスタイルへと変貌を遂げていたのだ。

こうしてプロストは、
4度の世界王者として、伝説を築いていくのである。
プロストといえば日本ではとかくセナとの確執、接触での王座決定の
シーンが取り上げられ、ダーティなイメージで語られがちだが、
この86年は、アラン・プロストの真の実力が存分に発揮されたシーズンだった。

マクラーレン MP4/2C
 デザイナー:スティーブ・ニコルズ
 エンジン:TAGポルシェ TTE PO1 1.5L V6ターボ(ドイツ)
 タイヤ:グッドイヤーアメリカ)
 燃料:シェル(オランダ)
 ミッション:マクラーレン/ヒューランド製5速マニュアル
 ドライバー 1:アラン・プロスト(フランス)
       2:ケケ・ロズベルグフィンランド

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ぽんつかの『F1名(迷)車列伝』・9

◆1991 ベネトン・フォード B191

今回ご紹介するのは、1991年のベネトンチームのマシンだ。
ベネトンというアパレルブランド、みなさんご存じだろうか?
まぁ今も世界展開しているので、ショップくらいは見かけたことがあるだろうか。
イタリアのファッションブランドがF1参入を開始したのは1983年、
ティレルチームをスポンサードしたのが始まりである。
その後85年には新興チーム、トールマンをスポンサード。
翌86年にトールマンを買収し、ベネトン・フォーミュラが誕生する。
ベネトンはその後、フォードエンジンとワークス契約を結び、
当時F1界に君臨していたマクラーレン、ウィリアムズ、フェラーリ
戦いを挑み、前述3チームを含め「4強」の一角としての地位を確率してゆく。

で、このB191という車、まだまだベネトンが野望の途中にあった時代のマシンだ。
ドライブしたのはネルソン・ピケ。当時御年39歳の大ベテランで、
81、83、87年と3度の世界王者に輝いた「走る必殺仕事人」だ。
ブラジル、リオ出身のピケは私が大好きなドライバーのひとり。
好きなF1ドライバーを5人挙げろと、いや3人挙げろと言われても
ランクインするであろうドライバーだ。
3度の世界王者の私生活は奔放そのもので、定住する家を持たず、
モナコのヨットハーバーに停泊した自前のクルーザーで生活。
世界各国に4人の妻と、認知されている7人の子種がおり(うち2人はレーサーとなる)、
「マンセルの奥方はブサイク」、「運転以外に好きなことはS○X」など
奔放な言動であちこちで物議をかもしたりもした。
だが、走りは華麗かつ繊細で、リスクマネジメントを徹底し、
王者になるために如何に行動すべきかを常に意識していたドライバーだった。

87年にウィリアムズで3度目の王座を獲得したピケは、
翌88年に名門ロータスへ移籍する。しかしロータスでピケは2年間苦杯を舐めた。
88年はシャシーの出来が悪く、さらに翌89年にはホンダエンジンを失った。
すっかりモチベーションを失ったピケだったが、翌90年に心機一転ベネトンと契約。
1ポイント獲得ごとに10万ドルという出来高契約でやる気を取り戻したピケは、
90年シーズンの第15、16戦と2連勝をはたし、ベネトンをランキング3位へ導いた。
チームは翌91年、第3戦からB191を投入。「天才」ジョン・バーナード作のマシンは、
今後30年のF1マシンのトレンドとなる「ハイノーズ」と「吊り下げウィング」を採用。
第5戦カナダGPでは最終ラップで先頭を行くウィリアムズのマンセルが
突然ストップするという幸運もあり、2位を走行していたピケが優勝を飾る。
しかしチームは、第11戦でジョーダンチームより衝撃のF1デビューを飾った
後の「皇帝」ミハエル・シューマッハを引き抜き加入させた。
それに伴い、チームメイトのロベルト・モレノを一方的に解雇した。
モレノはピケと同郷で、下位カテゴリ時代から窮地の仲であった。
さらに、途中加入のシューマッハがルーキーらしからぬパフォーマンスを見せ始め、
さらに当時チームマネジメントの実権を握っていたトム・ウォーキンショーが、
シーズン終了を待たずにピケを解雇し、自らとつながりの深いマーティン・ブランドル
の起用を希望していたことを知ると、ピケはチームに対する不信感を募らせ
ついには移籍を決意。91年限りでベネトンを離脱した。
ピケは翌92年に向けてリジェと交渉していたが、契約金額で折り合いがつかず。
結局明確な引退宣言もなく91年を最後にF1を去った。

B191はいくつかの点で、91年のベネトンチームの象徴的なマシンである。
ひとつはフォルム。前年ティレルが登場させた019というマシンに端を発した
「ハイノーズ」を、このクルマも採用。しかし、ティレルが「アンヘドラルウィング」
と呼ばれる、セパレート形状(ノーズの直下にウィングがないスペースがある)
なのに対し、このB191は一枚板のウィングを吊り下げる形状を採用した。
ティレル019は、あの独特のウィング形状のおかげでフロントのダウンフォース量が
小さくなり、のちに中島悟が「フロントが軽い感じがした」と述懐している。
その後のF1界の空力トレンドを見ればわかるように、
ハイノーズマシンのウィング形状のトレンドは「吊り下げ式」になった。
もう一つは、歴史の「はじまり」と「終わり」が同居していた点だ。
80年代の王者ネルソン・ピケは、このシーズンを最後にF1を去った。
そして、90年代後半~2000年代前半まで活躍、7度の世界王座に輝き
「皇帝」の異名をとったミハエル・シューマッハがチームに加入したのだ。
このベネトンでピケの時代、キャリアは終わり、
B191はのちの30年に及ぶF1界の空力トレンドを築き上げ、
チームは95年にコンストラクターズタイトルを獲得するまでになり、
シューマッハは世界王座を7回獲得する。

この時点ではまだ4強時代の末弟に数えられたベネトン
時代はマクラーレンからウィリアムズへの政権交代に注目が集まる中、
F1界の「新陳代謝」は、実はこのベネトンチームで進んでいた。
古い歴史はベネトンで終わりをつげ、新しい歴史は1991年
このベネトンで幕を開けていたのだ。


ベネトン B191
 デザイナー:ジョン・バーナード
       マイク・コフラン
 エンジン:フォード HB-A5 3.5L V8(アメリカ)
 タイヤ:ピレリ(イタリア)
 燃料:モービル(アメリカ)
 ミッション:ベネトン製6速マニュアル
 ドライバー 19:ロベルト・モレノ(ブラジル)
          ミハエル・シューマッハ(ドイツ)
         ※第12戦イタリアGPより参戦
       20:ネルソン・ピケ(ブラジル) 

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